コヒナタワーゼの小部屋

Seek ye first the Kingdom of God And His righteousness. And all these things shall be added unto you. Allelu, Allelujah!

海の風景ー加計呂麻島ー

今週のお題「海」

 海と聞くと加計呂麻島から毎日見ていた海の風景を思い出す。そして、少しばかり苦い風景を思い出す。幼い頃、家族と海に行って楽しく遊んだ記憶がある。その記憶もとても大切な記憶でもあるのだけれども私にとって海と聞いて真っ先に浮かんでくるのは突き出たコンクリの上に座って加計呂麻島から望む海。深夜過ぎ、ハブに気をつけながら夜道を歩いて海辺まで行った。ゴギブリがとってもいっぱいいて君たち昼間どこにいるの?と思いながら砂浜を歩いて海の音を聞いていた。星が綺麗。そして、その時期は今と似たような夏だった。

 

 加計呂麻島に行って何をしたのか、というと、やっぱり人間との関わり方だった。私は旅行をしても、土地の上に何が建っているかの違いだろ、と考える人なので場所という観点から受ける刺激は少ない。おそらく、気質や人に焦点が行くのだ。そして、私が言われたのは「つまらない」という言葉だった。

 

 私は内気で頑固の子どもだった。高校の時は意地を通してクラスメイトと仲良くした記憶がない。だから、大学へ入ってからはかなり困った。距離感がつかめなくて、1回生〜2回生前半まではずっと人間との付き合い方、を考えていた。そんな中、2回生の夏に、加計呂麻島へ行ったのだ。動機としては単に離島に対する憧れ、だったと思う。

 

 私は内気で相手を不快にさせないように気をつけていた。人間関係とはそういったものだと考えていた。当時、私は結構厳しい寮に入っていて、どこもかしこも規則があった。役員もやっていたため、下手に問題を起こさず、前回のものを引き継いて行うのが基本だった。みんな真面目にやってない。私も、寮の仕組みが嫌いだったから、仕方ないから行なっているだけだった。どのみち規則からは外れられない。外れたらペナルティという罰が待ってる。もちろんルールがあるから、私たちは快適に過ごせられる。(また、ルール、法は考えていきたいと思ってます)

 

 けれども、「話さないからつまらない」か。つまり、何を行なってもある程度の人は不快にさせるんだな、と考えた。だったら、自由にやった方がよくないか?そこから、私は自分自身を解放させていくように傾けていった。解放させる、とは考える前に行ってみるということ、私は考えすぎる癖があったから、もっと軽く、話してみることにしたのだ。今なら、まだ失敗しても、ミスをしても軽いものだ。思い返せば、中学だってm高校だってそうだった。今ではもう、何をしていたのかは覚えていないよ。自他共に認める人見知りだったのに、今はもう人見知りと言われる私はいない。私はまだ人見知りという自覚があるのだけれども。

 海と聞くと加計呂麻島から毎日見ていた海の風景を思い出す。そして、少しばかり苦い風景を思い出す。何もできなかった自分、「もっと自分を表現して」と言わせてしまった自分、意見を言えなくて見くびられた自分、自信を持てなかった自分。加計呂麻島へ行って、素晴らしい人たちに会って、私は末席を汚し続けたけれど、あの苦しく苦い体験から今がある。まあ今となっては、理想が高くやっと得られた自信を再び喪失しかかっているのだけれども。しかし、これは自信がないのではなく、なんども自分の自信を再構築していっている過程だ。

 

 こうして、自信を構築していくことができたから、自らダメな人間関係を切り離していくこともできた。未知なことを行うときも自分自身に、大丈夫だよ、ということができるようになった。こうして、失敗して、恥をかくことはまだ私には必要だ。今度はちゃんと自分で選択していきたいな、自分のみならず周りも。

また頑張ろうね。

 

何だろう、海を見ると毎回あのダメだった自分を思い出すというのはある種の呪いになっているのかもしれないけれども、「いつの日かこの記憶が美しい思い出になることを願う