コヒナタワーゼの小部屋

Seek ye first the Kingdom of God And His righteousness. And all these things shall be added unto you. Allelu, Allelujah!

京都 歴史のまちー祠からー

この1日はテスト勉強のためのもの、というと長い1日の時間の中でできれば良い、という考え方になってダメだなあ。気をつけよう。

 

さて、3回生になってゼミが始まって教授がどのように疑問を組み立てているのか?という事がわかってきた。違和感を拡張して考えるんだ。だから、センスを磨け、とか本物に触れておけ、とかいうんだね。有島武郎の作品を読んだんだけど、まるで血で書いたような言葉から目を離せなかった。中原中也の作品を読んだ時と一緒だなあ。有島武郎も近道を言ってはいけない、と言っていた。今はまだわからないけれども、多くの人が同じ言葉を残しているんだから、いつか遠回り・楽をしないことの大切さがわかってくるんだろうなあ。

 

大学が京都で、周りに古い建物が多くあるのだけれども、残念ながら、私には京都という土地は魅力的には見えなかった。けれども、今日の散歩は少し違った。私はやっと違和感を言語化するという事がわかってきたと思う。いわゆる、センスを磨け、ネタ探し、というものができるようになってきた結果なのかな。

 

京都を歩いていると、古い古民家や地蔵様、何かしらを祀っているの祠があちらこちらにある。私の地元は静岡で比較的都会の方の出身だから祠だとかそう言った古いものはあまり見かけない。均一的に近代化されている。しかしながら本来の実家?は田舎にある。その田舎にはある程度祠だとかは残っているのだけれども。明治から大幅に日本は変わったよね。また、その時代付近は調べてまとめたいと思っています。

 

私の本来の出身であろう田舎に祠は残っている、と言ったね。その祠の1つは私の祖先の祠なんだ。だから、昔から信仰心というか天上的な何かに対する尊敬的な念は決して忘れたことはないよ。加えてこの事実がきっと私をキリスト教の方へ傾けたんだなと思う。

 

ああ、話が逸れた。何が言いたいかって祠とかは誰かにとって大切なものでゆかりのあるものであるということ。ゆかりがあるとは行われた事実があって歴史があるということ。だから、あちこちに祠がある京都は現在と過去に分断された場所なんだなって思った。いつしかのレポートで、私は京都は昔ながらのものと、現代のものが混在している町だと思います、と書いた。だから、京都に住んでいる間は、現代と、過去の人々が見ていたものが見れるね。さすが歴史のまち。やっと理解できました。