0507
昔の文章読んでたら話題が飛びまくってて何いっているんだ私、って言う感覚に陥ってた。いや思考があちらこちら飛びまくるからうーんンンンン気をつけて
さてさて。私の好きな小説本のトップとしては福永武彦の『草の花』とアンドレ・ジッドの『狭き門』ではあるが今この作品に関して愛と孤独の観点から考え直している(草の花のテーマはそもそも愛と孤独だけれども)
狭き門は当然、草の花にしてもキリスト教、強いて西洋の思想を強く受けているのはまあすぐ分かるところ。だからか、自我という言葉が強い意味を持っていると言える。
愛に関していうと、私の元々の愛の定義が「人を堕落させるもの」であった。家庭環境により。しかしながら今の愛の考えは「与えるもの」、という考え方に移行している。
草の花に関しては孤独は自我を支えるものとして出てくる。汐見は何かを与えていただろうか。藤木兄弟を理想視してる面から見ても自分の自我が自分の中で収められなかったのかなとも思う。誰からも愛されなかった僕、という観点からまあひとりを確固とした一人の人物で見ることができなかったのだろうなぁ
狭き門に関してはまず私の念頭にあるのはアリサではあるが、まあアリサも孤独≒自我
ちょっと待って今日中(2020年5月6日)に終わらないからまた今度