コヒナタワーゼの小部屋

Seek ye first the Kingdom of God And His righteousness. And all these things shall be added unto you. Allelu, Allelujah!

洗礼受けてきました。

 ああ、やっと言えた。

今までの私もよくここまで来ました。

さて、ということで世間様はイースター!過越のお祭りですね。

 

 哲学に触れてからというもの、西洋思想の根本たる、キリスト教を無視してはいけなかったのが高校生の時の私でした。哲学に触れてから、私の常識が全て崩れ去ってしまった気がしました。哲学者の考えは私の独自だと思っていた考えを既にあったものとして糾弾し、新たな問いを突きつけました。私はそんな問いに触れたことも考えたこともありませんでした。その時、私はただ物事に反応しているだけで、私自身の意思はなかったことに気がつきました。自分の意思、生きることとは一体?・・・そんな考えを定言命法や、分析哲学などの助けを借りながら置き換えて行きました。

 

 その頃と同時に始めたことが読書でした。私は何も知らない、人見知りさえする。だったら、私が知識を得られるものなんて本ぐらいしかないだろう。そんな浅い考えでデミアンを読みました。驚いてしまった。自らの殻を破らなければいけない。自分を導くのは自分の身である。デミアンを皮切りに私は読書をしなければいけないと言う使命のもとに様々な本を読んでいきました。中心は西洋文学および哲学思想の本。そんな中とどめとなったのはアンドレジットの『狭き門』。そのアリサの振る舞いがどうしても頭にこびりついて離れないのです。

叶うのならば、私もアリサと同じように。この作品がキリスト教の批判ということは知っていますがそれにしては美しすぎるでしょう。

 

 その頃から教会に興味を持って何度も教会を訪れました。宗教だから怖いって感じはなかったです。だって私の尊敬するカントやヒルティはキリスト教を持って生きていたから。そしてプロテスタント教会では浪人している間、英語を教えてもらっていました。というのもオーストラリアで教授をしていたという方がいらっしゃって、英語を教えてくださったからです。その際にもらった言葉は今でも私の宝物です。

 

 大学に入ってからも私は教会へと通ってました。そして一回生の秋の始まりのころ、聞いたのです。「洗礼を受けたいのですがどうすればいいのですか」と。

あの頃、どうやって洗礼を受けるのか全くわからなかった。あったのは体験談とか、現場を見ていないであろうまとめサイトだけ。

だから今回書き記すことで、あの時の私が欲しかったものを書き記そうと思います。


 書き記す前に少し私のことを話しておきましょう。

 私は仏教とつながりがあります。というのも、私の家には村の守り神となって自ら生贄(というのかな、人柱?)となったお坊さんがいて、毎年お祭りをしているのです。今は、生贄となったお坊さんを讃える地蔵(かな?)が建っています。

お祭りはその村にあるお寺の方々に頼んでいました。そのため、幼い頃から宗教というものに触れていました。

祖父がその家の歴史を大切にしていてなんどもなんどもお話に聞かせてくれました。そのお話の乗っている本をくれました。私はこの事実にとても誇りを持っています。

何かに祈るということ、何かを大切にすることは決して悪いことではないのです。

過程

 教会の方々に洗礼が受けたい、と言った後勉強会に出ることになりました。私の場合、1年程度参加しました。

その後、復活祭に合わせて洗礼式です。洗礼は基本的に復活祭に合わせて行うとの頃でした。勉強に参加するのは半年程度でも良かったらしいのですが、私は洗礼準備式というものに一昨年出ることができず、半年間長引いたのだろうと思います。(去年は出れました)

神父さんによると洗礼を許可する基準は神父さんによってまちまち、と言っていました。私の際は基準が比較的緩かったと思います。 

 

こう書いてみると結構シンプルですね。自分から切り出せるかが問題なんだろうなあ。

さて、では仏教は?

 さて、ではもともと縁ある仏教ではなくキリスト教、書き忘れたけれどもカトリックにしたのか、という点において。まず洗礼式の時も聞かれたけどプロテスタントではなくカトリックにしたのか?という点に関して。カトリックは仕組みやシステムがすでに確立されているからです。プロテスタントについては色々な宗派があるんですよね、ルーテルとか。私が英語を教えてもらっていたのはルーテルでした。ゆえに、カルト化しやすい。もちろん良い教会もあるのですが、プロテストはカトリックに反抗して作られたというその歴史的経緯から見て基本的に自由度が高いんですよね。その自由が、こう言った大規模なシステムの中では脅威になる。故にです。

反論が来るのは免罪符や格式による形骸化かな?

・・・免罪符に関しては反論はたやすい。カトリックの主体と行われたことに関してはは何らか変わりはない。レオ10世がカトリックを使用しただけで、カトリック自体には罪はない。形骸化に関しては儀式時代に意味がある、と言いましょう。形を保ち続けていること、同じ風景を何度も繰り返していることに意味がある、と私は言いましょう。

 さて仏教に移りましょう。

 仏教はね、勉強した人はわかるように、輪廻のサイクルから抜け出そうとするのが仏教なんですよ。私にはそれじゃあ意味がなかったんですね。

なんか仏教のお勉強になってしまうのだけれども、お釈迦様はこの生きている世界は苦である、と言ったんですね。言ってしまえば四諦、例えば生きる苦しみ、老いる苦しみなどによる四苦八苦。

仏教には広く知られる輪廻転成の思想がありますね。輪廻転成したら、またこれらの苦しみを受けることになります。だから、その輪廻自体から逃れる必要があった。

そのために何が必要か?その苦しみから解放する手段を八正道、例えば正見、正思惟で表した。さて、修行して涅槃に至り、輪廻の輪から外れよう!

と言ったものが仏教の思想になります。(どこか勘違いしてたらごめーーーん)

 

でもね、私は苦しみから救ってもらわなくたって良かったですよ。私はこの仏教の思想に自分で修行をして自らを救うという思想を読み取りました。でも、自分を救うということは絶対にできないということを感じてました。だって、私は不完全なのですから。

 

yhys.hateblo.jp

 

自分で自分は救えません。そもそも私は大きな間違いを犯しすぎたのです。哲学ですら私を救えない。だから、言ってしまえばカントのように神様が、頼るものが必要だったんです。

 

およそ理性的存在者である限りの存在者の行為を規定する法則の絶対的必然性である。

 

カント著、篠田英雄訳『道徳形而上学言論』岩波書店、2005年。

 

我が内なる星空と我が内なる道徳律に思いを馳せます。私は、ただ、生きることを望みます。それはアリサや彼らのように完成を望んています。

なぜ洗礼を受けたのか/受けなければいけなかったのか

 別に教会にちゃんと通って哲学を心に持って、アリサを思いながら生きればいいじゃないか、というかもしれませんね。昔、洗礼について調べてた時にどうして受けたのか、という検索キーワードがありました。そう考えるのだな、と思って書こうと思います。

 私は日々を典礼として生きていきたいのです。私は神様、絶対者の前に立ちたいのです。

「私たちは幸せのために生きてきたんじゃないのよ」そのアリサの言葉を思い浮かべます。だからこそ、私は洗礼を受けて、正しく生きたかった。その正しさが正しいのか、義とされるのかはわからないのだけれども。

 正直言ってしまえば、まだ、これがキリスト教だ、と胸を張っていうことはできない。けれども私は、日々を典礼とすること、義の前に生きたいと思ってしまうのです。 

さてさて

 洗礼は言ってしまえば、共同体に入るということに値します。まあ、洗礼を受けたからって全てが変わるわけではない。あまり実感はありませんし。

 

 洗礼式に関しても言っておきましょう。普通のミサ、+α。中盤〜最後あたりにベールをかぶせてもらいました。昔、洗礼を受けた修道女の言葉の、ベールをかぶせてもらってまるでイエスキリストに・・・って言葉が思い出しました。あとはやっぱ水だね。水はキリスト教の中で重要なものなだけあって、やっぱ使うんだーって。

あとは手引書や日々の祈りの本をもらいました。一年勉強したぐらいでキリスト教のこと、全てをわかるわけないですよね。キリスト教の手引書っぽい感じのものでした。洗礼してまもない私にはありがたいです。

私は遠いところから大学へ来ていて、下宿して、教会に来ていたため、代母さんは探してもらいました。なんか、よくわからなかったけど、代母さんって私が思った以上に重要な役割っぽいなあと思った。けれども、この地では私縁もゆかりもそこまでないわけで。あとは教会に通って、勉強会に行って、共同体に行って、キリスト教のこと学んでいこう。ちゃんと選んで生きていこう。選ぶことで、自分は何者になりたいのかを決められる・・・

 

ずっと罪の意識があった。許して欲しかった。

上記のリンクの餞別文もそうだけど、私は大学へ、モラトリアムの期間で行こうと思っていました。そのあとは・・・。

 浪人の時に、絶望していたんです。世界は、認識が全てが間違っていた。一歩間違えたら、這い出ようがない暗闇に落ちそうで怖くて怖くて仕方なくて、ずっと物語にすがり続けました。諦めたら負けるのだと思ってここまで来ました。

だから、史学科を選びました。私は何かを選ぶことができなかったからです。選ぶだけの強さと自信を持ってはいませんでした。

史学は主観的に書かれた資料を自分の目で読み解くことを主とします。社会学や考古学や人類学、物理学・・・言ったらきりがないですが、そう言ったものを利用して正しいものを掘り起こります。だから、私の目が歪んでいたら全てが歪みます・・・どうしたら正しく読み解けるのか、客観的に、正しく認識できるのだろう。そのことを考えていました。哲学は院でやった方がいいと言われました。行くかどうかは別として。

私は自分で選べるようになりたかったんです。

 

 生きるのならば、正しく生きたいと思いました。アリサが目指したように完璧を目指して。義を持って。その行いこそが私の幸福であろうという考えは今でも変わりません。基準はカント哲学であって、きっとその行いこそが私にとっての幸福です。だから、こう行った選択を私はとるんですよ、どうしてそこまでできるのか、と聞かれます。ただ簡単なことなんですけれどね。

 

こんなことは誰にも言うことができません。

アルコールがいい感じに回ってきたのではないかと思います、書きたかった、書いて残しておきたかった。

 

去年の夏、長崎に行きました。浦上教会という場所があるのですが、そこでシスターさんと話しました。『私の人生はこれでいい』その言葉と態度と話し方、全てを覚えています。嬉しかった、あの思い出を忘れることはできないし、憧れもありました。

 

また、ここから歩いていきます。きっと、私はまだ迷いながら生きるんでしょうね

子供は宝か?

子どもは宝なのか?

まあ宝なんだろうな。あらゆる本を見ていて、文章を見ていて、作品を見ていてこの言葉の否定形を見たことがない。いな、あらゆる人がこのような言葉を言う。

子どもにあるものは何か。未知、故に起こる”子どもらしい”感情。

道はすなわち選択肢の大きさを表すのだろうか。私が小学生や中学生の時、君たちには無限の可能性があるといった。その事実が価値なのだろうか。もしくは再起か。

新しいものによって新たに物事が進んでいくのか。ああ、私にはきっとこちらの結論の方が好ましい。

 

私が不服に思うのは子どもは宝だといって終わる人。

自分の意思を後の人間に託して自分はもう諦めようとしている人。

初心者の人に大変だったらいってくださいね、と言う無意味な言葉を言って保険をかけて帰って行く人たち。

 

子どもは宝だよ、だからと言ってどうして自分自身は宝ではないのか。

どうして「僕/私のようにはなってはいけないよ」なんて言葉を容易に口にできるのかがわからなかった。自分自身に価値がないかのように話す人、どうしてなのかがわからない。

自分なら自分のこと、なんだってできる。だから、自分のことも宝だと思ってよ。

 

羅漢は自分の欲望は他人の欲望だと言った。良くも悪くも私たちはほとんど反応しているだけなのかもしれない。それが嫌で、私は史学科へ入っている。

またこの話もちゃんとかけたら・・・。

 

蛇足。現在車輪の国、向日葵の少女をやっています。主人公面白い!そしてこの主人公がう〜んもやもや(良い意味で)

 

 

餞別文 卒業

今週のお題「卒業」

 

 こんばんは。長く続いた冬ももう直ぐ終わりを迎えますね。きっと私が京都へ戻る頃には桜が綺麗です。お元気ですか。言葉をあげられなかったあなたたちに言葉を送らせてください。

 

 私は今京都に住んでいます。怒られるかもしれないけれども、私は京都へ行くつもりなんてなかったの。たまたま大学が京都だったから京都へ行っただけで。高校の卒業式について、ね。私は高校を卒業したという実感はわかなかったの。先生たちが別れの言葉を告げる中、私は「また会えるじゃん」なんてことをずっと思ってた。そうして、卒業して、もう何年かな。そのとき、私は卒業したという実感なんてなかった。

 

 私は大きな失敗をしたね。ええ、というのも精神をやられていた、という言葉でここは片付けさせてください。また、会ったときに話させてほしい。端的にいうと、浪人したの。だから今はあなたたちの後輩に当たる。けれども、本当は後輩になれて安心した。私の周りの同級生は私より先をいっているような感じがしたから。私が早生まれのせいかな。

 話が逸れたね。失敗したの。浪人した。多分、これは勉学とかじゃなくて多分私が進むことを恐れたからだと思う。高校卒業した時の年齢って18ぐらいでしょう。だから、私はまだ子どもだと思っていたの。卒業なんてしたくないって思っていたの。大人になんかなりたくないって。子どものままでいれば好きな結末がやってきてくれるってね。ごめん、曖昧な物言いだけど意を汲んでほしい。

 けれどもこんなことを書くことができるぐらいに私は進めたと思うの。だから私は今回筆をとりました。こんな失敗を見て欲しくなくてずっと逃げててごめん。

 

 なんで認めることができたのか、つまり今になって卒業できたのか、ということを述べることを許してください。私は大学へ入って年下の子と同級生になりました。私が成人しても同級生たちは未成年だった。そのときに気付いたの。この、年齢を取るというサイクル、入試というようなサイクルはずっと続いていくんだなって。その事実に気付いたときに、私にはもう認め、諦めるしか選択肢がなかった。年下の同級生の前で泣き言は言っていられなかったのです。

 もちろん彼/彼女らを侮ってなんかいません。私が浪人し、友達の先生に勉強を見てもらった時間と経験の溝は私を深く隔てました。同級生の子、私と何も変わらなかったの。だから、年齢の問題じゃないんだなって思った。経験をし、どう考えてきたのかということ、その事実によって変わるんだって。悲しかったよ、私はどれだけの時間を無駄にしてきたんだって思った。卒業をしないことで、認めないことで私は得られたはずの多くの経験を失ったんだ。

 私にとって卒業するということは大人になるということと同義だった。もう大学生だもんね。そう思ったら色々諦めることができた。甘えることとか、何も考えずに生きることを。子どもであるということにしがみつかなくてもよかった、って思うの。でもこの認識にくるまでは大学の一人の友人の存在を話さなければいけません。でも、その話はまた会ったら話そうね。

 

 私のことばっかり話しちゃったな。きっと言い訳に聞こえると思う。否定はできません。けれどもきっと私は聞いて欲しかったんだと思うの。ありがとう。

また時間があったらいろんな話を聞かせてくれると嬉しいです。この4年間の間何があったかとか本当はとっても話したかったの!

 そういえば弟も高校を卒業しました。月日が経つのは早いね。

 経験をせずに、避け続けることもできるとは思うけれども、経験をすることで得られることも多くあるって気づきました。浪人のことを悪く思うように書いたと取られると思うけれども、本当は浪人の時期も誇らしいこと、いっぱいありました。また、私はいろんな体験をします。そして、あなたにお話をさせてくださいね。

大学生活の途中、今の私はあなたにこの手紙を餞別の意を込めて送ります。 

また会おうね。

 

物語の受け止め方/生かし方

どろろがめっっっちゃ好き

 さてさて、今回はアニメのキャラクターについて述べようと思います。そういえば書いていなかったため、書いておこう。

私はアニメ・文学を含め物語を読むことが大好きな人間です。

 

 私は物語のキャラクターがどのように行動するかを見るために物語を読む。  

キャラクターだけが好きで内容を知らないじゃないか!という批判を何度か耳にしたことがある人も多いと思うんです。けれども私はこの意見に懐疑的。というのも、キャラクターは物語があってこそ存在し、そのキャラクター自身を刻みつけてくれるものであるから。

 

 語弊をなくいうと、私は好きになった物語の登場人物/キャラクターの真似を幼い頃からずっとしてきた。そうしてキャラクターを借りることで理想の自分自身になろうとして来た。

悪いこととは思わない。私はキャラクターという理想を見ることができたからその理想に合うように努力してきた。

 よく◯◯(架空のキャラクター)に釣り合うように私自身を押し上げた、という話も聞く、そう行った”つり合うようにする”ことと同じことを私はしているだけだ。

 

 アリサからは信仰心を。西洋の深き思想と物語の美しさ。詩を読むことの優美さを。百鬼丸からはそのあり方の美しさを・・・。だからアニメを見続けるし、ゲームをし続けるし、本を読み続ける。

 

 亡くなってしまった人を生かすにはどうしたら良いのだろう?と考えていたことがある。私の答えは彼/彼女らの好きだったことを引き継ぐこと、真似することであると考えた。というのも、その引き継ぐということ、真似するということは確かに彼/彼女らの影響を受けたということであり、一部を受け継ぐ、生かすことであると考えるから。

 

あああああ書きたいことはいっぱいあるのにまとまらない!案外難しいことだ、書くことって。簡単に思えていても。精進します。

 

くら寿司のバイトテロをみて思うこと

バイトテロってなんだ

 

バイトテロとは、主にアルバイトなどの非正規雇用で雇われている飲食店や小売店の従業員が、勤務先の商品(特に食品)や什器を使用して悪ふざけを行う様子をスマートフォンなどで撮影し、ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)に投稿して炎上する現象を指す日本の造語である

 

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/バイトテロ より引用)

 

まぁWikipediaで。

行う対象としてはアルバイトや非正規雇用、とある。今回はこの正社員ではないという所に焦点を当ててみていこうと思う。

 

やっっとインターネット確保できたから再開。

そういえば一人暮らし始めたアパートいってもネット環境なんてないのを忘れていた。

この記事を書こうとしたのもリゾバがめっっちゃ不快だったからである。

やっぱ新鮮のうちに書かないとダメですね\(^o^)/

 

リゾバで派遣されていた時に、私は派遣社員という身分で働いていた。

まあその時に感じ得てしまったこと、正社員さんは派遣社員の方を対等としてみてはなくて、ただの使える道具としてみてんだな、と。

まあ当然といえば当然だけれども、愚かにも(?)性善説を信じていた私は深く絶望したのでした。よわい人は助けて、もちろん誰でも公平に接するものだと思ってたな。

リゾバのそのチーフだけかもしれないけどね、リゾバで来ていた人を「あのババア」とか「んじゃねーよ!!」って暴言吐くような人は。

 

とはいえ帰ってから行ったアルバイトでも「派遣とか人間扱いしてもらえなさそうだよね〜」って言われたのであ、うん察した。

 

つまり何が言いたいかというと、人間として扱わないような職場に忠誠心はない。アルバイトが真面目にやらない云々も聞くし、そりゃないでしょとかああかわいそうに、とも思うけれどもアルバイトや派遣の上司は来てくれた労働者にどんな振る舞いをしていた?

 

もちろんめっちゃ善良な職場もある。お菓子タイムと言ってお菓子好きなだけ出してくれるところとか。だいたい個人や家族経営のところが多くてチェーン店はほどんどないけど。

 

まあくら寿司さんはバイトさん面白がってたしなあうーん店の受ける衝撃があんまりにもとは思う・・・けれども今回のリゾバの経験を経て懐疑的ではある。

 

メモ

仕事

 

 趣味と両立出来ないと✕

 ワークとライフが混ざってるぐらいがいい。

 

環境によって人は簡単に変わってしまう。今回のリゾバが実体験。いかに自己中心的であったか。

心理学等を見て、詐欺や環境変化に対するいくらかのパターンがあるかを調べておく。